ギャラリー

所蔵品について

入江泰吉(いりえたいきち)1905〜1992

奈良大和路の写真家

1905(明治38)年、奈良市に生まれる。画家を志すが家族の反対で断念するも、長兄からアメリカ・イーストマン社のベストコダック・カメラを譲り受け、写真に打ち込む。1931(昭和6)年、大阪で写真店「光芸社」を開業。文楽人形を撮影した「春の文楽」で世界移動写真展一等賞を受賞、文楽の写真家として活躍する。1945(昭和20)年3月、大阪大空襲に遭い自宅兼店舗が全焼、ふるさと奈良へ引き揚げる。同年11月17日、疎開先から戻される東大寺法華堂四天王像を目撃、そのときアメリカに接収されるとの噂を聞き、写真に記録することを決意。以後、奈良大和路の風景、仏像、行事等の撮影に専念。晩年は「万葉の花」を手掛けるなど約半世紀にわたって撮り続けた。1992(平成4)年1月16日死去。享年86歳。
<収蔵品>入江泰吉の全作品(約8万点・大半がフィルム)を収蔵。また、入江が使用していたカメラ、余技作品であるガラス絵・木端仏(こっぱぶつ)・篆刻や収集品など多くの資料を収蔵。

工藤利三郎(くどうりさぶろう)1848〜1929

古美術写真の先駆者

1848(嘉永元)年、現在の徳島市に生まれる。13歳のときに学者を志して上京、陽明学や朱子学を学ぶうちに日本の美術史にも関心を持つようになった。美術品の撮影では、被写体が造られた時代的特徴を考察した上で撮影の構図や切り取る部分が求められるため、美術史に造詣の深い工藤には撮影に大変有利であった。1877(明治10)年工藤が29歳の時、明治元年の廃仏毀釈以降日本の仏教美術品は荒廃した状況に置かれ、その一部は海外に流出していることを聞かされた。古美術に関心のあった工藤はせめて写真に記録しておこうと決心し東京で写真技術を習得した後、1883(明治16)年故郷の徳島で写真館を開業した。肖像写真などを中心とした町の写真館だったが、他店との厳しい価格競争などがあり結果的に10年で店を閉めることとなった。工藤は美術写真師への思いを断ちきれず故郷を後に、1893(明治26)年奈良市へ移り住み猿沢池東畔の菩提町に写真館「工藤精華堂」を開業。奈良には被写体となる多くの歴史的建造物、仏像などの仏教美術品があり観光地ならば写真館の経営も成り立つと考えてのことであった。以後、写真集『日本精華』全11輯、写真集『東洋精華』全2號、写真集『日本美術歴代選』を発行。1929(昭和4)年7月11日死去。享年81歳。
<収蔵品>当館で所蔵している工藤利三郎に関する資料は、ガラス乾板1025点、工藤精華堂が販売した絵葉書76点、写真集『日本精華』(11輯)がある。写真集『日本精華』は全11輯・総点数1068点の構成でまとめられているが、当館が収蔵するものは刊行当時の完全なものではない。コロタイプ印刷による中ページは当時のものだが、表紙、製本については奈良市教育委員会が作り直した仕様となっている。またガラス乾板1025点については、2008年に国登録有形文化財に登録され、文化財として貴重なものであることが証明された。

津田洋甫(つだようほ)1923〜

日本の自然を切り撮る写真家

1923(大正12)年、奈良県吉野郡大塔村(現五條市)に生まれる。1945(昭和20)年日本大学芸術学部映画科卒業。1961(昭和36)年故郷の奈良・大台ケ原の原生林に接してから、日本の自然を生涯のテーマに選び活動を開始する。1966(昭和41)年自然を対象にした写真を撮り始める。1974(昭和49)年写真展「樹木讃歌」を大阪・東京で開催。1980(昭和55)年写真展「Poems of Tree」をニューヨークで開催。「冬若木」など5作品が日本人で初めてメトロポリタン美術館に収蔵される。以後、各地で数々の写真展を開催。写真集に『木の色・風の色』『四季百樹の詩』『水の詩』『水色の風』『シンフォニー大地の詩』などがある。日本写真家協会会員、浪華写真倶楽部会員。
<収蔵品>津田氏より寄贈された「四季百樹の詩」プリント100点がある。